君に心からのおめでとうを言うためなら、どこまでだって飛んで行こう。

友達の結婚式という、帰省するにはうってつけの口実を手に入れて、
10月から11月に変わる数日を実家で過ごした。

そこに漂う空気は、何もかも変わらないけれど
(弟がいない分、少し静かになったような気もする)
父の作ったステンドグラスが少し増えていたり、
Wii Fit Plusとフラダンスの成果なのか
母が少し痩せたような気がしないでもなかったり、
変わらない中にも少しずつの変化があって、
それは当たり前で幸せなことでもあるけれど、
いつか来る避けられない大きな変化の予兆のようでもあって、
少し、胸が痛む。

自分では「私がいない家」を知覚することができないせいもあって
やっぱり私がそこにいる方が、自然な状態のような気がして、
東京に1人住んで普通に働いている自分をいつまでも歓迎することができない。

そんな虚ろな私も別の場所から見れば、
器用に世の中を渡り歩いて成功しているように見えるのだろう。
たとえ他人に微塵も見せないところでは、
失ったものを思っていつも号泣しているのだとしても。

つかの間の休息から東京へ戻るその日は、
冬が来るなんて嘘みたいに温かくて、
世界が時を進めるのをためらっているような気がした。


一度だけ、名前を呼んで笑ってくれたその一瞬を、
いつまでも、いつまでも。

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玄関を開けたら迎えてくれたカエル(これは父の作ではない)。
おカエり、ってことらしい。

寒さと共に思い出すのは、幸福だった時の思い出とそれを失った時の痛みと。

いったん秋に入ってしまうと、
そこから冬に至るまでの流れは、泣きたくなるほど早い。
あっという間に日が暮れて、
自分だけが世界に取り残されたような気持ちになる。

視覚的にも、ほとんどワイシャツ姿だった外回りのサラリーマン達が
背広を着込んで歩くようになると、
急にその気配が高まったように見えてくる。

ああまたこの季節がやって来たのだと、
それだけでなんだかさびしくなる。

この時期にこんな想いに駆られて、
こんな風に辛くなるのは、自分だけなのだろうか。
誰ともこんな話をすることはないし、
誰もが普通の顔をして通り過ぎていくから、分からないけれど。

だから、ふとした空白の時間に
ああ、あの人はどこで何を想って過ごしているんだろうなんて
詮ないことを考えてしまうのだ。

そしてまた我に返ったとき、
バカみたいと笑ってみる。誰も見ていないのに。
空元気だって、立派な元気の一種だろう。
そんな、落ちた自分ととことん向き合って、
季節が通り過ぎてゆくのを待つのも、
それはそれで、アリだろう。

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「どうしていつも
 僕のいない世界はこんなにもキレイなんだろう
 あの日君が見つけてくれた僕を
 結局 僕自身がいらないものにしてしまった
 でもそれでも
 この痛みをなくして身体をなくして
 目の玉だけの存在になっても
 僕はずっとあの横顔を見ていたい
 神さまそれは
 僕のエゴでしょうか」

たなかのか「タビと道づれ 4」

タビと道づれ 4 (BLADE COMICS)

タビと道づれ 4 (BLADE COMICS)

グラン・トリノ/Dir クリント・イーストウッド

オールドタイプで頑固な差別主義者、朝鮮戦争帰還兵の老人ウォルトは、妻に先立たれ、息子や孫たちから厄介者扱いされていた。元フォードの自動車工だった彼が最も大切にしているのは、ヴィンテージカー、1972年製グラン・トリノ。ある日、隣に住むモン族の少年タオは、従兄弟のギャング達に脅されグラン・トリノを盗もうとするが、ウォルトに見つかり失敗してしまう。その結果タオは、償いのため、1週間ウォルトのもとで働くことに。また、なりゆきでタオの姉スーが不良に絡まれているところを助けたウォルトは、家に招かれ、手厚い歓待を受ける。最初は有色人種である彼らのことをよく思わなかったウォルトも、タオやスーと交流していくうち次第に心を開き、いつしか友情が芽生えていく。しかし、そのことをよく思わないギャング達は、彼らに対する報復を企てる。友人を守るために、ウォルトがとった行動とは――。

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観る前から、好きになれそうな映画だと思っていた。
観たら、案の定、好きな映画の1つになった。
でも、その良さを語るのが難しい映画でもあると思う。

戦争や民族差別、あるいはナショナリズムと縁遠い世界で育った私には、
彼がどんな気持ちでモン族である隣人たちのことを見つめ、
純国産のフォード、グラン・トリノがどんな存在であるのか
本当の意味で分かることはできないだろう。
それでも、こんなに胸を打つのは、
彼の姿が、身近にいる誰か、或いは将来の自分の姿と重なるからであり、
つまるところは、人が何のために、どう生きるかという
個人の問題だからなのだろう。

老いるということは、それだけで切ない。
その先にある死を、予感せざるを得ないから。
長い時を積み重ね、様々な悔恨を抱え、連れ添った伴侶も失い、
自分の死を意識しながら生活するようになったとき、
人は何を信じ、どう生きるのか。
そんなことを、この映画の豊かな余韻の中で考えていた。

人は完璧ではないけれど、彼のように、
自分の信じるもののために生きたいと願った。
今からすぐにでも。

久しぶりに、目頭の奥が熱くなるような
想いがしました。

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「You've come a long way.
 I'm proud to call you a friend.
 You have your whole life ahead of you, whereas this is what I do.
 I finish things.
 You'd just get in the way. Sorry.」

(映画「グラン・トリノ」)

グラン・トリノ [DVD]

グラン・トリノ [DVD]

あの頃私たちは狭い世界で幸せに生きてた。

大型連休だシルバーウィークだと世間が浮足立っている今週。
私もちゃっかりとその恩恵に預かり、
溜まっていた代休と合わせて9連休を取得したので、
弟の住んでいる京都に遊びに来た。
ずっと家にいて、とことん自分のしたいように過ごす連休というのも
かなり魅力的ではあったけれど、
せっかくなら、普段できないことのために
時間とお金を費やすのも悪くないと思えたので。

とはいえ、特に目的やプランがある訳でもないので、
「せっかくだからなんか美味しいものでも食べに行くー?」
と、出かけることもあるけれど、
1日だらだらと、DVDを見たり、ゲームをして過ごすこともある
(むしろ後者の方が多かったかもしれない)。

楽しいことを、10積み重ねるよりも
1つの心から楽しいことを大切にする方が、
ずっといいと最近では感じる。

一緒にいる時、
自分らしい自分でいられる人と過ごす時間。

これが私の、いちばん休日らしい休日。

柳広司「ジョーカーゲーム」&「ダブルジョーカー」

少し前から気になる存在ではあったのだけれど、
手を出したが最後、ひと晩で一気読みしてしまった。
陸軍内のスパイ養成学校、通称"D機関"(陸軍中野学校がモデル)。
そこに所属する彼らは、昭和12年、戦時中の陸軍にありながら、
"死ぬな、殺すな"と教えられる。

己の高い能力と、それゆえの高いプライドのみを拠り所とする彼らの
知略の応酬、孤独な戦い。
人はプライドのために、こうまで何かを犠牲にして生きられるのか?
と思いながらも、そのストイックな生き様に、憧れを禁じ得ません。

アニメにしても、ドラマにしても
そこそこ売れそうだなあと思ってしまうのは職業柄か
(そうすることがいいか悪いかは別として)。
すらすら読めてしまうので、忙しいけどエンタメ小説が読みたい人にはお勧め。
霜月かよ子が漫画化した「Dの魔王」も、同じく良かったです。

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「この連中を動かしているものは、結局のところ、
 ――自分ならこの程度のことは出来なければならない。
 という恐ろしいほどの自負心だけなのだ。」

柳広司「ジョーカーゲーム」

ジョーカー・ゲーム

ジョーカー・ゲーム

番号もアドレスもなくしたら、もうつながることもないのかな。

ここ最近は、いろんな懐かしい人に会った。
仕事の合間のランチだったり、
相手の職場にお邪魔したり、
全てが終わった後のわずかな時間だったり。
そしていろんな話をした。
昔に戻ったような、とりとめのない話も、
今にしか、できないような話も。
社会人になって知り合った人たちと会うのも楽しいけれど、
学生の時から知っている人たちと共に過ごす時間には、
独特の安心感があると思う。

顔が見られて嬉しいっていうのはもちろんだけど、
声が聞ける距離にいられることの幸せ、というのを
一緒にいる間はひしひしと感じていた。
もしかしたら姿形よりもずっと、
声というものがその人にとって固有のものだから
なのかもしれない。

せっかく縁があった人たちならば、
たまにでもいいから、
言葉を交わして声の届く距離にいられればと願う。

もし、相手が、それを許してくれるのならば。

森博嗣/トーマの心臓

おそらく私なんかが語る余地もないくらい
多くの人にとっての特別な漫画として、
語り継がれていくであろう萩尾望都の「トーマの心臓」を
森博嗣がノベライズするということで、
自然と手に取った。

当然のことながら原作と小説にはさまざまな相違点があるけれど、
その2つの印象を違うものにしている一番の要素は、
全てのことが、オスカーの視点から語られるということだろう。

愛すべきユーリ、トーマ、エーリクの友人であり、
彼らよりは少し大人で、いつも周りのために少し身を引いていたオスカー。
彼を通してしか見えない世界、
彼を通してでは見えてこない世界の両方が
トーマの心臓」にはあったのだと感じた。

違う作品とは言いながらも、全編に漂う透明感や、
伝わってくる感覚は確かに、私たちがよく知る「トーマの心臓」に通じるもので
これを書いた人が、シュロッターベッツ・ギムナジウム
静謐で美しい世界に深く入り込んだことのある人だということが、
確かに分かった。

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「束縛をするような身内は鬱陶しいけれど、
 信頼していて、自由にさせてくれる人だっていると思うな。
 そういう人は、ずっと一緒にいなくても良くて、
 でも、どこかにいてくれる。生きている、というだけで、嬉しい。
 そういうものじゃない?」

森博嗣トーマの心臓


トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)